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教会に入り込むタンムズ(エゼキエル8:14, 17-18)
고요한 2026-03-07 추천 0 댓글 0 조회 49

20260308日曜韓国語礼拝

聖書:エゼキエル8:14, 17-18

題目:教会に入り込むタンムズ

賛美:436、445

説教:高曜翰 牧師

場所:大阪中央教会

“そして彼はわたしを連れて主の家の北の門の入口に行った。見よ、そこに女たちがすわって、タンムズのために泣いていた。 時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、あなたはこれを見たか。ユダの家にとって、彼らがここでしているこれらの憎むべきわざは軽いことであるか。彼らはこの地を暴虐で満たし、さらにわたしを怒らせる。見よ、彼らはその鼻に木の枝を置く。 それゆえ、わたしも憤って事を行う。わたしの目は彼らを惜しみ見ず、またあわれまない。たとい彼らがわたしの耳に大声で呼ばわっても、わたしは彼らの言うことを聞かない」。”

‭‭エゼキエル書‬ ‭8‬:‭14‬, ‭17‬-‭18‬ 口語訳‬

1。タンムズとは?

 「タンムズ」という言葉は聖書の中でたった1回しか出てきていない言葉ですが、ユダヤ人にとっては忘れることのできない言葉です。元々ヘブライ暦では、第一の月、第二の月と数えていましたが、バビロン捕囚を通して、バビロニア式の数え方に変わりました。そして4番目の月をタンムズと呼ぶようになりました。しかし、単なる月の数え方で終わらない意味があるのです。そしてそのタンムズは、現代の私たちにとっても無関係ではありません。それでは、タンムズについて見てみましょう。

 タンムズは、古代メソポタミアで崇拝された農業の神です。妻は愛と戦いの女神イシュタルです。言い伝えによれば、タンムズは狩の最中に巨大な野生の猪に襲われて命を落としました。タンムズが死ぬと、イシュタルは悲しみ泣きました。その後、イシュタルが冥界に行きタンムズを連れ戻しました。そしてタンムズは一時的に生き返るようになりました。

 これは単なる物語ではなく、農業の季節を表しています。タンムズの復活は植物が育つ春を表し、タンムズの死は乾季が始まる夏を表し、タンムズの不在は冬を表しているのです。つまりタンムズ信仰は、季節を神格化した宗教なのです。タンムズは、死んで復活する神の典型でもあり、エジプトのオシリスとイシス、カナンのバアルとアシェラ、ギリシャのアドニスとアフロディーテなど、古代世界に広がった神話構造と共通しています。

 このタンムズ崇拝の特徴は三つあります。第一に祝福中心信仰です。豊作、出産、生活の守りなど、ご利益を求める信仰であり、神そのものよりも祝福を求める信仰です。第二に感情中心信仰です。人間中心の思考が強く、神よりも自分の感情に従う信仰となります。人々はイシュタルが泣いたように、悲しみ泣きながらタンムズを礼拝します。第三に体験中心信仰です。創造主ではなく、自然のサイクルを神格化していることから、遠くにいる神ではなく、実生活にあった体験を重視する信仰になります。

 このタンムズ信仰は、バビロン捕囚の前からイスラエルの中に入ってきました。国際化によって外国の商品だけではなく、各地の神々も一緒に入ってきたのです。そして王など指導者たちの政策に利用されたり、民間のご利益信仰のために広がったと考えられます。

2.本文解説

 それでは、8章の本文を見てみましょう。エゼキエルの家にイスラエルの長老たちがやって来ました。これまでのエゼキエルの見せる預言の効果が現れたようです。エゼキエルの話を聞こうとしてやって来たのです。預言者の前に座るということは、神の言葉を謙遜な姿勢で聞くことを意味します。これは、エゼキエルにとっても、神の言葉を伝える絶好の機会でした。

 しかし神様は、エゼキエルが語るのをまだ許しませんでした。突然、幻の中で、人のような存在が現れ、エゼキエルの髪の毛を掴んでエルサレム神殿へ連れて行ったのです。最初に連れて行かれたのは北の祭壇の入り口でした。そこには妬みの偶像が置かれていました。これはバアルの妻アシェラの像と考えられます。一部のイスラエル人は、ヤハウェの妻としてアシェラを迎え入れていました。この神様を冒涜する偶像は遠くからも見える場所に置かれており、カナンの神を堂々と崇拝するイスラエルの姿がそこにありました。

 次に見せられたのは内庭の壁でした。そこには這うものや獣の像が刻まれており、隠れた場所で偶像礼拝が行われていました。そして驚くべきことに、シャパンの子ヤザニヤを含む70人の長老が立って崇拝していたのです。70人とは、長老全体を示していると考えられます。指導者として神のみを礼拝すべき長老たち全員が、エジプトの生き物崇拝思想に影響を受け、神様ではなくエジプトが助けてくれるという希望を抱いていたことがわかります。

 さらに連れて行かれたのは、外庭北側の門の外です。そこにはタンムズの像があり、タンムズのために泣く女性たちの姿がありました。感情的になって涙を流すのは、タンムズを礼拝スタイルだからです。自分たちの神が臨在する神殿の門の前で、自分たちを滅ぼそうとしているバビロンの神に依存しているイスラエルの姿がそこにはありました。

 最後に見せられたのは、内庭の本堂の入り口と祭壇の間です。そこでは、25人ほどの祭司たちが祈っていました。これは、ダビデが制定した24組の祭司と大祭司一人を合わせたもので、祭司全体を意味しています。しかし、驚くべきことにこの祭司たちが全員、神殿の内側にいながら、礼拝すべき神に背を向け、東の太陽を拝んでいたのです。神と民とを繋ぐはずの祭司たちが、創造主を無視し、被造物を拝む偶像崇拝をしていたことがわかります。

 神がこの光景をエゼキエルに示されたのは、エルサレム崩壊の理由を明らかにするためでした。長老たちは外見上は神を敬っていましたが、心の中には偶像を抱いたままでした。神殿は、神のみを礼拝する場所であるはずなのに、今や様々な外国の神々を拝む場所になっていたのです。例えるなら、家の外で隠れて不倫をするのではなく、家の中に堂々と連れて来て不倫をするようなものです。罪悪感が完全に麻痺している状態と言えます。神殿は物理的には建っていても、霊的にはすでに神が離れている状態だったのです。

3.適用

 今日は、偶像崇拝を代表してタンムズ信仰の危険性をお伝えしたいと思います。タンムズ信仰は何も2500年前の話ではなく、現代においても教会の中に入り込んでいます。今日のお話のように、教会の外で隠れて偶像崇拝をしているのではなく、教会の中で堂々と偶像崇拝が行われているのです。タンムズ信仰が何かを一緒に見てみましょう。

 第一に、タンムズ信仰は祝福中心信仰です。成功、健康、繁栄を求める信仰です。現代の教会にもご利益信仰や祈福信仰が入り込んでいます。祝福をもらうために神様を信じているのです。神様が目的のはずなのに、祝福が目的となり、神様が手段になってしまっている信仰です。皆さんは祈る時、何を求めていますか?

 イエスは「祝福を求めなさい」とは教えませんでした。「まず神の国と神の義を求めなさい」と教えました(マタイ6:33)。祝福を一切求めるな、とは言いませんが、信仰は神との関係を優先するものです。夫婦関係でも、相手が何をしてくれるかが重要ではなく、相手の存在自体、その関係性自体が重要なはずです。だから神様との関係においても、受けることが中心ではなく、従うことが中心です。だから、信仰の中心は、祝福を求めることではなく、御言葉を求めることだということを忘れないでください。

 第二に、タンムズ信仰は感情中心信仰です。自分の感情に従う信仰です。現代の教会では、音楽や照明、演出によって感情が操作されることがあります。集団心理に流される危険があります。神様に喜んでもらうことが目的のはずなのに、自分が喜ぶことが目的になっている信仰です。皆さんは何を目的に礼拝に参加していますか?

 イエスは「自分の感情に従え」とは教えませんでした。「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」と教えました(マルコ8:34)。感情を無視しろ、とは言いません。感情も大切です。しかし、感情が主人になるべきではありません。なぜなら私たちと神様との関係は、不安定な感情の上にではなく、安定した契約の上に成り立っているからです。夫婦関係でも、自分の感情以上に、相手との関係が重要なはずです。だから愛をもって我慢できるのではないでしょうか?感情を主人にしてはいけません。私たちが感情を支配する側に立つべきです。信仰の中心は、感情に従うことではなく、御言葉に従うことだということを忘れないでください。

 第三に、タンムズ信仰は体験中心信仰です。体験が絶対的な基準になった信仰です。現代の教会でも、祈りが叶った、奇跡を見た、これだけ奉仕をした、といった目に見える体験で信仰を測ろうとする一面があります。それは自分自身をも騙してしまう可能性があり危険です。皆さんは、何を基準に自分の信仰が強くなったと言いますか?

 イエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と教えました(マタイ4:4)。体験は意味がない、とは言いません。しかし、信仰は体験ではなく御言葉を基準にします。奇跡的体験がなくても信仰は成立します。むしろ体験主義に陥ると、体験がない時には不安になり、人によって操られる危険性があります。夫婦関係でも、相手が何もしてくれなくても、相手の言葉だけで安心できるのはなぜですか?信仰の中心は、体験を基準にすることではなく、御言葉を基準にすることだということを忘れないでください。

 タンムズ信仰の行き着く先は、滅びであることをエゼキエル書は教えています。イスラエルは神様の言葉よりも、祝福中心、感情中心、体験中心の道を選びました。その結果、神さまは神殿を離れました。

 歴史的に見ると、BC586年のタンムズの月に、バビロンによって神殿崩壊が起こりました。その後神殿は再び立て直されました。しかし、AD70年のタンムズの月に、今度はローマによって神殿崩壊が起こりました。現在も、ユダヤ人はタンムズの月の17日を、城壁が破られた日として断食しています。祝福中心に生きた結果、祝福を失いました。感情中心に生きた結果、喜びを失いました。体験中心に生きた結果、神様による体験を失いました。私たち教会は同じ過ちを繰り返してはいないでしょうか?

4。まとめ 

 祝福、感情、体験も大切ですが、中心は神の言葉です。神の言葉に従う教会に神の臨在があります。聖書が教える信仰は、神との関係であり、祝福を得るための手段ではありません。神の言葉を無視するなら、関係は崩壊します。神の言葉を第一とする大阪中央教会と聖徒の上に、主の恵みがありますように。 

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