20201030早天祈祷会 in Jesus Love Church
聖書:詩篇38:1–22
題目:私を見捨てないでください
賛美:393
説教:高曜翰 伝道師
詩篇38篇は、ダビデが病気のさなかに書いた詩と考えられています。
ここには、病気と信仰の関係について深い洞察が示されています。
1. 病気は偶然ではなく、神様からのメッセージである
私たちは病気になると、つい「これはただの偶然」「体力の問題だ」と考えてしまいます。
もちろん、自分の不注意が原因の場合もあります。
手洗いを怠ったり、夜更かしを続けたり、生活リズムの乱れで身体を弱らせることもあります。
しかし聖書は、病気も神様の許しのもとで起こると教えています。
空の鳥でさえ、神様の許しなしに地に落ちることはありません。
ならば、私たちの身体の痛みや不調もまた、神様の許しの中で起こっているのです。
聖書には、病気を通して注意を促された多くの例があります。
-
エジプトへの災い
-
ヨブの苦難
-
ミリアムの皮膚病
-
ウジヤ王のツァラアト
-
エリシャのしもべゲハジの病
など、病気が神様からの特別な知らせとなった人々です。
2. 病気は、罪を思い出させる鏡
ダビデは病の中でこう言いました。
3節:「主の怒りによって私の肉には健やかなところがなく、
私の罪のゆえに私の骨には安らぎがありません。」
病気は、私たちが普段忘れてしまう罪を思い出させる鏡となります。
健康な時には、自分が強くなったように思い、
祈りを忘れ、神様を見ないまま過ごすことがあります。
しかし弱さを覚える時、
私たちは素直になり、神様の顔を再び見上げるようになります。
ダビデがこの詩を書いたのは「記念のため」、
つまり 二度と神様の恵みを忘れないため でした。
3. 病の時に経験する痛み ― 孤独と敵意
病の時、私たちが突きつけられる現実があります。
(1) 友人の不親切(11節)
「私の愛する者も友も、私の災いを避け、
親しい者たちも遠く離れてしまいました。」
本来なら、友人や家族は弱っている者を訪れ励ますべきです。
しかし実際は、病気になると人は離れていきます。
ダビデも、友も親戚も離れて孤独になりました。
(2) 敵の喜び(12–20節)
病気になると、敵は逆に喜び、罠をしかけます。
本来、嫌いな相手であっても、不幸があれば哀れむのが普通です。
しかし世の中はそうではありません。
コロナの時代、多くの人が患者を“悪い人”のように扱いました。
弱っている人を責めるのは、病の痛みにさらに重荷を加えることです。
4. ダビデの叫び ― 神様を最優先にする信仰
ダビデは19節で、
「私の罪のことで私は不安です」
と告白し、
21節で、
「主よ、私を捨てないでください」
と叫びました。
彼は友人関係や自分の計画よりも、
神様との関係を何よりも大事にしました。
信仰と病気は無関係ではありません。
しかし、だからといって病気の人を批判してはならないのです。
パリサイ人は病を「罪の結果」と断定しましたが、
イエス様は病の人々に優しく手を差し伸べ、
癒しを通して 神様との関係の回復 を教えました。
一方で、イエス様は弟子たちには厳しい言葉を与えました。
神様と共に歩む者には、成長のためにより深い教えを与えるからです。
5. 病気と健康、どの時も神様の前に正しく生きる
では、私たちはこれからどのように生きるべきでしょうか。
① 元気な時 ― 霊的成長のチャンス
祈り、聖書を読み、良い行いをし、信仰を成長させる最も良い時です。
成長には痛みが伴います。
だからこそ、元気な時にしっかり成長しましょう。
② 弱っている時 ― 悔い改めて神の慰めを受ける時
身体が弱まる時、心も弱くなります。
その時こそ悔い改め、神様の慰めを受けるチャンスです。
神の慰めは、回復の力となります。
③ 他の人が弱っている時 ― 優しく寄り添う時
誰かが病気や信仰の低下で苦しんでいるなら、批判してはいけません。
まず優しくして、回復を手助けしましょう。
体と信仰が回復してから、ゆっくり教えていけばよいのです。
結び
病気も健康も、神様の御手の中にあります。
弱さの中でも、ダビデのように
「主よ、私を見捨てないでください」と叫びつつ、
神様との関係を何よりも大切にして歩んでいきましょう。


댓글0개