20230604青年部礼拝
聖書:ルカ17:20-21
題目:神様の王国
賛美:먼저 그 나라와 의를 구하라
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
導入
神様の王国と無関係に、正しい信仰生活を送ることは不可能です。
なぜなら、救われた者はすべて、神様の王国を回復するという神の計画に参加する者として召されているからです。
私たちが神様の計画の中で生きるならば、神様の力によってこの世に勝利を収め、神様の国の平安を得ることができます。
ですから私たちは、神様の国のための人生を送る者となりましょう。
1.結婚生活と信仰生活
まず、結婚生活と信仰生活を比較しながら考えてみたいと思います。
問題のある結婚生活
問題のある結婚生活の特徴は、「結婚そのもの」が目的であり、ゴールになっていることです。
「人の視線や現状の不満から逃げるために結婚しよう」
「結婚すれば、今よりは良くなるだろう」
「結婚すれば、夫や妻に頼って、楽に生きられるだろう」
このような動機で始まる結婚は、やがて行き詰まります。
また、家庭作りに協力せず、自分の自由や平穏にしか関心がない場合、
個人的な主張がぶつかるたびに、結婚生活は苦しいものになっていきます。
本来の結婚生活
本来の結婚生活とは、夫婦が共に家庭作りを優先し、積極的に参加するものです。
さまざまな問題が起こることは避けられませんが、それを一緒に解決していく姿勢が大切です。
結婚はゴールではなく、結婚後に「どのような結婚生活を送るか」が重要なのです。
問題のある信仰生活
同じことが信仰生活にも言えます。
問題のある信仰生活は、「救い」が目的であり、ゴールになっています。
「天国行きのチケットを手に入れたから、あとは自由に生きてよい」
「神様の祝福によって、良いことばかりが起こるだろう」
「礼拝と善行だけを守り、清く正しく、平穏な人生を送りたい」
このような考え方は、神の国の回復計画に参加せず、自分の自由や祝福にしか関心を向けていません。
個人の欲求ばかりを主張すれば、信仰生活もまた苦しいものになっていきます。
本来の信仰生活
本来の信仰生活とは、神様の王国づくりに積極的に参加する生き方です。
私たちが救われたのは、自分の努力や成果によるものではありません。
また、私たちが救われたのは、豊かで楽しい人生を送るためだけでもありません。
悪魔の攻撃は避けられませんが、神様と共に、それを乗り越えていくのが信仰生活です。
救われて終わりではなく、どのような信仰生活を送るかが問われているのです。
神様の王国とは
国や王国は、「主権」「人民」「土地」によって成り立ちます。
神様の王国においては、主権は神様にあります。
私たちは神の民にふさわしい存在へと日々変えられていくだけでなく、
新しく神の民を生み出す使命も与えられています(マタイ28章19節)。
しかし、神様の王国に反対する悪魔の攻撃があるため、戦いは避けられません。
2.ヨシュア記におけるカナン戦争
ヨシュア記に記されているカナン戦争は、神の国を回復する使命を理解する上で重要です。
カナン戦争の二段階
ヨシュア記12章までに描かれているのは「征服戦争」です。
12章以降は「占領戦争」が始まります。
イスラエルは征服には成功しましたが、占領には失敗しました。
神の国を回復する使命(イスラエルの場合)
神は、七部族の住民をすべて殺すか、追放するよう命じました。
彼らの罪は満ちており、神の目から見て救いようがなかったからです。
これは神の国を建てるために必要な行為でした。
失敗例
ユダ族はエルサレムの占領に失敗し、最終的にエブス人と和平を結びました。
これは神の国の平安よりも、この世の平安を優先した結果であり、
正しさを教えられない子育てにたとえられます。
ヨセフ族は北方地方を占領しきれず、カナン人を奴隷として残しました。
これは神様の力よりも人の力を恐れ、人の力に頼った結果であり、
人目を気にする子育てに似ています。
ルベン族、ガド族、マナセ族はヨルダン川東部の占領を途中で諦めました。
最後まで従わなかった結果であり、子育て放棄にたとえられます。
さらに、シムオン、イッサカル、スブロン、ダン、ナフタリ、アシェル、ベニヤミンの諸部族は、
戦うことすらせず、先延ばしにしました。
これは自分の人生や祝福にしか関心がない姿であり、子どもへの無関心に通じます。
成功例:カレブ
一方、85歳のカレブはヘブロンを占領し、アナク人を完全に追放しました。
彼は自分の健康な体を、自らの成果ではなく、戦いのために主が与えてくださったものだと理解していました。
カレブは、祝福で終わる人ではなく、祝福をもって神の国のために戦う人でした。
その結果、神様に喜ばれ、神様の偉大さを深く体験することができたのです。
3.イエス様の言葉の意味
イエス様は「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」と語られました。
意味①
ユダヤ人はイエス・キリストを認めませんでした。
しかし、イエス・キリストが人々の間におられることによって、神の国は到来していました。
これは、イエス・キリストを無視して神の国に入ることはできない、という意味です。
パリサイ人たちはイエスを無視したため、神の国と、弟子たちが経験した奇跡を逃しました。
意味②
神の国は、すでに来ています。
だからこそ、私たちは今、神の国のために行動すべきなのです。
神の国に行きたいと願いながら、神の国のために生きようとしない態度こそが問題です。
私たちの中にイエス・キリストがおられるのに、どうして神の国を無視するのでしょうか。
それは、その国の法律に従おうとしない外国人の姿に似ています。
復活後のイエス様
イエス様は復活後、40日の間、神の国について語られました(使徒1章3節)。
聖霊が与えられたのは、より良い暮らしのためではなく、伝道のためです。
私たちの信仰生活は、祝福そのもののためではなく、神の国のためにあります。
4.この世でどのように生きるのか
間違った信仰生活
イスラエルの民は、神の国の計画に最後まで参加し続けることができませんでした。
パリサイ人はイエス・キリストを受け入れられず、神の国に入れなくなりました。
そして現代のクリスチャンの中にも、神の国の計画には参加せず、神の国に入ろうとする姿が見られます。
正しい信仰生活
結婚生活において家庭作りが避けられないように、
信仰生活においても神の国は避けて通ることができません。
私たちが先に救われ、祝福を受けたのは、
神の国の計画に参加するためです。
その計画に参加する時、私たちは神様に喜ばれ、
大きな奇跡を体験することができるのです。


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