20230728金曜祈祷会
聖書:詩篇137:1–6
題目:何のための体か?
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
導入
バビロンに連れて行かれたユダヤ人たちは、自分たちの「手」や「口」、つまり体そのものが、本来最も愛すべき神様のために用いることができなくなったという現実に直面し、涙を流しました。
彼らは、神様を賛美するために与えられていた体を、神様のために用いることができなくなったのです。
私たちは、取り返しのつかなくなる前に、今なお自分の体を神様のために用いることができる恵みを喜びたいと思います。
祈り(マタイ22:37)
愛する天の神様、感謝します。
今日、7月最後の金曜日の夜に、あなたの前に集い、賛美をささげることが許されたことを感謝します。
この一週間、私たちは世の中の言葉に心を揺さぶられ、神様に頼るよりも、自分自身やこの世に頼ってしまいました。その結果、神様を賛美するために与えられたこの口で、人を傷つける言葉や悪口を語ってしまいました。どうかお赦しください。
私たちは小さく弱い存在ですが、今夜、力の限り主を賛美しました。どうかこの賛美を受け入れてください。
私たちの口も、口から出るすべての言葉も、主のものであることを告白します。
これから聞く御言葉を通して、私たちを励まし、これからも変わらず神様を賛美し続けることができるよう助けてください。
感謝して、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
1.神様、もう少しだけ…(1998年)
この映画は、一人の女子高生の人生を通して、「体を何のために用いるのか」という問いを私たちに投げかけます。
主人公の女子高生は、コンサートのチケットを手に入れるために、自分の体を売ってしまいます。その後、コンサートの歌手と恋人関係になりますが、やがてエイズに感染していることを知ります。
エイズは1981年にアメリカで発見された病気で、免疫力を著しく低下させ、通常ならかからない病気で命を落とすこともありました。当時は不治の病とされ、発症すれば死を意味するものでした。現在では治療薬があり、死の病ではなくなりましたが、当時は人生を根本から奪う病でした。
彼女は、結婚して子どもを持ち、幸せな家庭を築くことができなくなります。夫婦関係を持てば相手に感染させてしまい、出産すれば自分は命を落とし、子どもにも約30%の確率で感染するという現実がありました。
それでも彼女は出産し、結婚式を挙げます。家族も友人も失い、頼るものが何もなかったからです。しかし、体は次第に弱り、結婚式の最中に命を落とします。
彼女の最後の叫びは、「神様、もう少しだけ生かしてください」というものでした。
現代社会では、性に対する価値観が大きく変わっています。10年前のアメリカの調査では、90%の人が婚前交渉を肯定していました。しかし、「みんなやっているから」「一回だけなら大丈夫」という考えは、取り返しのつかない後悔につながることがあります。本当に愛する人ができた時に、その重さに気づくのです。
2.バビロン捕囚のユダヤ人
ユダ王国は、BC597年に第一次バビロン捕囚を経験しました。エホヤキン王、王族のダニエル、祭司エゼキエルなど3023人が捕らえられました。この時、人々は「いつか帰れる」と考えていました。
しかし、BC587年の第二次バビロン捕囚では、ゼデキヤ王が連行され、エルサレムは破壊され、ユダ王国は完全に滅亡します。人々は希望を失い、エゼキエル書に描かれる「乾いた骨」のような状態に陥りました。
この滅びの原因は、神様ではありませんでした。神の民でありながら、彼らはバアルやテラピムといった偶像も愛し、まるで夫がいながら他の男性と関係を持つように、神様との関係を裏切ったのです。強国の台頭ではなく、彼ら自身の不貞が原因でした。
国があった時、ユダヤ人たちは神様の愛を当たり前のものとして受け止め、大切にしませんでした。しかし、すべてを失って初めて、その愛の大きさに気づいたのです。
詩篇137篇は、その気づきの中で生まれた、嘆きと後悔の歌です。
バビロン人たちは、捕虜であるユダヤ人に対し、琴と歌と口を使って自分たちを楽しませるよう要求しました。しかし、彼らの琴も、歌も、口も、本来は主を喜ばせるためのものでした。逆らえば生きていけない現実の中で、彼らは悔しさのあまり涙を流し、琴を置きました。
「わが右の手を衰えさせてください」「わが舌をあごにつかせてください」という言葉は、神様のために用いられない自分自身への痛切な叫びでした。
彼らは、神様から離れ、国を失ってから、取り返しのつかない後悔をしたのです。
3.イエスの愛の怒り
イエス様は、エルサレム神殿で、両替人や動物を売る商人たちを激しく追い出しました。「ここを強盗の巣にするな」と語られたのです。
これは商売そのものを否定したのではありません。遠方から来る人のために捧げ物を用意すること自体は必要でした。
問題は、礼拝に来る人の信仰と神様を愛する心を利用して、不当な利益を得ていたことでした。それは神様のものを盗む行為であり、神の宮を汚すことだったのです。
聖書は、私たちの体が神の宮であると語ります。
もし私たちが、お金や欲望を優先する生き方をしているなら、それは自分自身を傷つけることになります。すべては神様の恵みによって生かされているのに、後になって必ず後悔することになるのです。
4.詩篇137篇の本当の意味
詩篇137篇は、ドイツのディスコミュージックグループ「ボニーM」によって歌われ、世界的に有名になりました。多くの人は、この詩を「捕虜生活の中で故郷を懐かしむ歌」だと理解しています。
しかし、聖書的にはこれは後悔の歌です。
自分たちが、どれほど神様を愛すべきだったのかに、失ってから気づいた歌なのです。
彼らが苦しかったのは、外国生活そのものではありません。国を失ったこと以上に、神様との関係が壊れてしまったことが最大の悲しみでした。
5.私たちへの問いとまとめ
私たちの手、口、そして体は、何のために与えられているのでしょうか。
それは、神の民として、愛する主を賛美するためです。
私たちは自分の体を本当に大切にしているでしょうか。
一時的な快楽のための酒やタバコ、刺青、暴飲暴食、夜遊び。主日を軽んじる生活。その結果、取り返しのつかないことが起こったとしたらどうでしょうか。
一時的な快楽のために体を傷つければ、後で必ず後悔します。神様から遠く離れてしまった時、私たちは必ず気づくのです。
だからこそ、
私たちの手も、口も、心も、神様のために大切に用いましょう。
私たちの体は、神の宮であり、キリストの花嫁です。
ユダヤ人たちのように、失ってから後悔するのではなく、
日々、主を愛する選択をし、
自分の体を神様を賛美するために用いていきましょう。


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