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エベネゼルの神様(サムエル上7:12)
고요한 2026-01-13 추천 0 댓글 0 조회 5

 

20231106三週夕方祈祷会

聖書:1サムエル7:12
題目:エベネゼルの神様

説教:高曜翰 副牧師

場所:중앙성서교회

「その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間に据え、『主は今に至るまでわれわれを助けられた』と言って、その名をエベネゼルと名づけた。」


1.父親との関係の修復

父親との関係がこじれた時、私たちはどのように仲直りをするのでしょうか。

多くの場合、父親の側からは謝ってくれません。自分が正しいと思っている間、人は謝ることができないからです。こちらが仲直りをしようとしても、さまざまな邪魔が入り、ようやく謝ることができたとしても、許してもらえないことがあります。さらに、一度は解決したように見えても、同じ問題が何度も繰り返されることもあります。

このような親子関係の問題に対して、1サムエル記7章は大きなヒントを与えてくれます。


2.ペリシテ人との戦い

① 神様とイスラエルの関係

かつて契約の箱はペリシテ人の手にありました。これは4章の戦いで奪われた結果です。例えるなら、「父親が家を出て行った」ような状態でした。

その後、契約の箱はペリシテ人の手から戻ってきます(7:1)。しかし、神殿には戻らず、アビナダブの家に留まりました。これは、親子関係がまだ完全には修復されていない状態を表しています。

それから20年後、イスラエルの民は皆、主を求めるようになりました(7:2)。なぜなら、ペリシテ人との戦いが終わらず、苦しみ続けていたからです。自分たちの力ではどうにもならず、父である神様に助けを求めるしかなかったのです。

② サムエルの助言

サムエルはまず、「偶像を捨て、心を主に向けなさい」と勧めました(7:3)。ここで用いられているヘブル語「クーン」には、「確実にする」「準備する」「方向を定める」という意味があります。悔い改め(ヘブル語:シューブ)とは、「戻ること」、つまり神様の方向へ向き直ることです。

次に、サムエルはイスラエルのために主に祈りました(7:5)。この祈りは「助けてください」という願いではなく、民が主に対して罪を犯したことを告白する祈りでした(7:6)。イスラエルはまず悔い改めました。すべては内面の回復、悔い改めから始まるのです。

人は時に、罪を犯した後で良い行いをして、問題をうやむやにしようとします。しかし、神様は罪を見逃すことのできないお方です。どれほど長い時間賛美を捧げ、礼拝をしても、まず必要なのは悔い改めの言葉です。

③ 危機の到来

事態が良くなり始めたと思ったその時、ペリシテ人が攻めてきました(7:7)。イスラエルが集まっていることを聞き、王子たちまで率いてやって来たのです。霊的に回復が始まると、悪魔の攻撃が強まることがあります。

例えば、親に「宿題をしなさい」と言われた途端、やる気をなくす小学生のように、あるいは教会に通い始めた途端、問題が起こるようなことです。

その中でサムエルは言いました。「主に叫ぶのをやめないでください」(7:8)。途中であきらめるのではなく、最後まで神様にすがることが大切なのです。

すると大きな雷鳴が轟き、神様はペリシテ人をかき乱し、イスラエルに勝利を与えられました(7:10)。神様に頼る時、神様は人にはできない方法で戦ってくださいます。

④ 記念碑エベネゼル

サムエルはその場所を「エベネゼル」と名づけました(7:12)。これは「助けの石」という意味ですが、もともとはトラウマの場所でした。4章の戦いでは4,000人が死に、契約の箱を持ち出して自信満々だったにもかかわらず、さらに30,000人が死んだ場所だったのです。

しかし今、その場所は「主がここまで私たちを助けてくださった」という信仰告白の場所に変えられました。なぜでしょうか。それは、悔い改めたからです。

信仰生活は自信でするものではありません。世の人は自分の力で生きますが、神の人は神の力で生きます。どれだけ早く自分の方向を神様に合わせられるかが大切です。エベネゼルがトラウマになるか、信仰告白になるかは、その人次第なのです。

サムエルが生きている間、ペリシテ人は侵入してきませんでした(7:13)。神様に心を向けさせ、罪を告白させるサムエルがいたからです。


3.イエス・キリストと悔い改め

① イエスの宣教の始まり(マタイ4:17)

イエス様の宣教の最初の言葉は、「悔い改めなさい。天の御国は近づいた」でした。これは洗礼者ヨハネも同じでした。

ギリシャ語の「メタノイア」とは、後悔することではなく、「心を変えること」、罪から神へと方向転換することを意味します。心を変えずに神の国を知ることも、救いも、信仰生活もありません。福音は、悔い改めた者に与えられるのです。

② 私たちは罪に向かいやすい存在

イザヤは言いました。「私たちは皆、羊のように迷い、それぞれ自分勝手な道に向かった」(イザヤ53:6)。私たちは一度だけでなく、何度も道に迷います。

自分勝手な道に進むこと自体が罪です。パウロは、「信仰から出ていないことはすべて罪である」と語りました(ローマ14:23)。叩くこと、嘘をつくこと、盗むことだけが罪ではありません。神様の言葉より自分の考えを優先することも罪なのです。

自分の考えに固執し、「自分は正しい」と思い込むことは危険です。だからこそ、私たちは悔い改め続け、神様に向きを合わせ続ける必要があります。そこにはエネルギーが必要で、悪魔の攻撃もありますが、心の向きを変え続けることで、私たちは神様に近づき、次へと進むことができます。


4.肉体的な父親との関係について

① 自分自身が悔い改める

子どもではなく、親に問題と責任がある場合も多くあります。聖書は「父たちよ、子どもを怒らせてはいけない」と教えています(エペソ6:4)。

しかし同時に、神様は「両親を敬いなさい」とも命じておられます(エペソ6:2)。神様の言葉は正しく、悪い父親さえも、神様のご計画の中で許されています。

父親を変えようとしてはいけません。人を変えることはできないからです。自分が悔い改め、変わる方がはるかに現実的であり、楽なのです。イスラエルが20年以上ペリシテ人と戦っても解決できなかったように、外側を変えようとする努力には限界があります。

② 神様に向きを変え続ける時

自分の力ではどうにもならなかった問題が、悔い改めを通して、神様の力によって解決されることがあります。トラウマだったエベネゼルが、記念碑に変えられたように、

死刑の道具だった十字架も、最後まで神様に向きを合わせたイエス様によって、神の愛を表す道具に変えられました。

変わらず嫌いで仕方なかった父親を、悔い改めを通して、哀れみの目で見ることができるようになる時、それ自体が神様が生きておられる証拠となります。


5.結論

私たちは、悔い改めるなら、変わることができます。

悔い改めとは、自分ではなく神様に向きを変えることです。周りの人や環境、問題が先に変わるのではありません。まず私たち自身が変えられる時、周りの世界が変わり始めます。

私たちが変わろうとする時、悪魔の攻撃はあります。しかしそれを乗り越え、神様に近づき続けるなら、私たちは自分の力を超えた力によって生きる者となります。

どうか、あなたの痛みのエベネゼルが、主を記念し、主を賛美するエベネゼルへと生まれ変わることを信じてください。​ 

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