20231204早天祈祷会
聖書:民数記13:1-16
題目:カナンの地の調査
賛美:351
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
聖書朗読(民数記13:1−16)
※朗読に用いられた本文内容に基づく要約。
(1–2節)主はモーセに命じ、イスラエルの子らに与えると約束したカナンの地を調査するため、各部族から一人ずつ、指導者を遣わすように言われた。
(3節)モーセは主の命令に従い、パランの荒野から彼らを遣わした。彼らは皆、イスラエルの部族の代表者であった。
(4–15節)各部族から選ばれた十二人の名が記されている。
(16節)これが、モーセが地を探らせるために遣わした者たちである。モーセはヌンの子ホセアを、ヨシュアと名づけた。
Ⅰ.本文解説
1.誰が調査を望んだのか
表向きには、神ご自身がモーセに「地を調査せよ」と命じられた(13:1–3)。
しかし申命記1:21–22を見ると、実際には民の側からの提案であったことが分かる。
神はすでに「あなたの手に渡している。上って占領しなさい」と言われていた。
民の願いを、モーセは常識的で妥当な判断として受け入れ、神に申し出た。
神はそれを許可された。
例:サムエル記において、民が王を求めた出来事。
2.何を調査したのか
民数記13章で使われている言葉は「トゥール(tour)」であり、意味は「探す・偵察する・目に見えるものを調べる」である。
この語は七回用いられている。
調査内容は、兵の数、兵の強さ、土地の良し悪し、城壁の状態など、目に見える要素であった。
一方、ヨシュア記で使われる言葉は「ハファール(ḥāphar)」で、「掘る」、すなわち目に見えないものを探るという意味を持つ。
そこでは、民の心、戦う備えといった内面的な要素が重視されている。
ここから、調査隊が目に見えるものに強く集中していたことが分かる。
3.調査結果とその問題点
その地は極めて豊かな土地であった。
二人がかりで担がなければならないほど大きなぶどうの房が、その証拠である。
しかし同時に、住民は非常に大きく、町々は城壁で囲まれていた。
十二人のうち十人は、「占領は不可能だ」と結論づけた。
良かれと思って行った常識的な判断が、重大な結果を招いた。
目に見えるものに執着すると、私たちは神の御業に参与できなくなる。
その結果、心が打ち砕かれてしまう。
Ⅱ.新約聖書との関係
1.盲目の人の癒し(ヨハネ9:13–41)
イエスは盲目の人の目を開かれた。
それは肉体の目だけでなく、霊の目を開く出来事であった。
しかしパリサイ人たちはそれを認めなかった。
「その人は神から来たのではない。安息日を守らないからだ」と言った。
その男はイエスを告白し、その結果、ユダヤ社会から追放された。
2.高慢は目に見えるものに集中させる
十人の調査隊の高慢さは、パリサイ人の高慢さと重なる。
彼らは約束の地に入れず、パリサイ人はイエスを受け入れることができなかった。
もし私たちが、「日曜日に教会で礼拝をささげているかどうか」で人の信仰を判断するなら、私たち自身が試練に陥ることになる。
3.真の礼拝とは何か(マラキ書3章)
イスラエルの民は、形だけの礼拝に陥っていた。
「どのようにして主に立ち返ればよいのか」と問われていた。
神は十分の一献金を通して、心の姿勢を問い直された。
霊とまことによる礼拝とは、自分にとって最も大切なものをささげることである。
神は、ご自身の最も大切な御子、長子をささげられた。
4.主日を守るということ(私自身の経験から)
人の言葉ではなく、神の言葉を聞くこと。
生きるために仕事をするのではなく、神の栄光のために働くこと。
命を支えているのは、目の前の人ではなく、神ご自身である。
Ⅲ.まとめ
1.不安を消そうとして人間的な知恵に頼ると、それは高慢につながる。
高慢になると、目に見えないものよりも、目に見えるものに集中してしまう。
その結果、不安はさらに強まり、問題が実際以上に大きく見えてしまう。
2.不安なときこそ、神の御言葉を読み、それに従おう。
目に見えるものではなく、目に見えないものを見るようになる。
そのとき、同じ現実を見ていても、不安は和らぎ、問題は小さく見えるようになる。


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