20240109早天祈祷会
聖書:申命記2:1-15
題目:荒野での放浪
賛美:386番
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
聖書朗読(申命記2章1〜15節)
イスラエルの民は、主の命令によって方向を転じ、紅海の道を通って荒野に入りました。そして長い間、セイル山の周りを回り続けました。
やがて主はモーセに語られました。
「あなたがたは、この山を回り続けてきた。もう十分だ。向きを変えて北へ進め。」
主はまた、民にこう命じられました。
「あなたがたは、セイルに住む兄弟、エサウの子孫の領土を通ることになる。彼らはあなたがたを恐れるが、あなたがたは自分自身を厳しく戒めなさい。彼らと争ってはならない。その土地は、あなたがたには一歩たりとも与えない。私はセイル山をエサウのための相続地として与えたからである。」
食べ物や水は、奪うのではなく、金を払って買うように命じられました。
主はこう言われました。
「あなたの神、主は、あなたが行うすべてのことを祝福し、この大いなる荒野を歩んできたことを知っている。この四十年間、主があなたと共におられたので、あなたには何一つ欠けたものはなかった。」
イスラエルは、エサウの子孫の地を離れ、モアブの荒野の道を進みました。その時も主は言われました。
「モアブを苦しめてはならない。戦いを仕掛けてはならない。その地はあなたがたのものではない。私はそれをロトの子孫に与えた。」
この地には、かつてエミム人と呼ばれる、アナク人のように強く、数が多く、背の高い民が住んでいました。しかし、主はすでに彼らを退け、モアブの人々にその地を与えておられました。
やがて主は、「立ち上がってセレテ川を渡れ」と命じられ、イスラエルは川を渡りました。
カデシュ・バルネアを出てからセレテ川を渡るまでに、三十八年が過ぎ、その間に、主に背いた出エジプト世代の戦士たちは、主の御言葉どおり、すべて荒野で滅びました。
Ⅰ.本文解説 ― 主に従って進む道
1.エドムの道 ― エサウの子孫の地を通る
イスラエルは、エサウの子孫であるエドムが住むセイル山の周囲を通ることになりました。
神様ははっきりと命じられました。
「彼らと争うな。その土地はあなたがたのものではない。食べ物も水も、金を払って買いなさい。」
神様は、こうも語られました。
「四十年間、私はあなたがたを守り、何一つ欠けることはなかった。」
新しい世代のイスラエルは、この命令に従いました。
相手から敵意を向けられても、反撃せず、神様の言葉を優先したのです。
2.モアブの道 ― ロトの子孫の地を進む
次に進んだのは、ロトの子孫であるモアブの荒野でした。
ここでも神様は言われました。
「敵対してはならない。戦いを仕掛けてはならない。その地はあなたがたのものではない。」
新しい世代のイスラエルは、この命令にも従順に従いました。
3.アンモンの道 ― 同じくロトの子孫の地
さらに、アンモンの領土を進む時も、神様は同じ命令を与えられました。
「争ってはならない。その土地はあなたがたに与えない。」
イスラエルは、ここでも神様の言葉に従いました。
4.注目すべきポイント
第一に、イスラエルだけでなく、エドム、モアブ、アンモンも、神様から「巨人に勝つ力」を与えられていました。
しかし、イスラエルは不従順のゆえに、かつてその祝福を受け取ることができませんでした。
神様は、異邦人を通してさえ、私たちに学ばせてくださるお方です。
第二に、新しい世代のイスラエルは、不満が出そうな命令であっても従いました。
自分の感情ではなく、「争うな」という神様の言葉を優先したのです。
Ⅱ.イエスに見る従順の姿
1.イエスが来られた理由
イエス様は言われました。
「人の子が来たのも、仕えるためであり、また多くの人の贖いとして、自分の命を与えるためである」(マルコ10章45節)。
イエスが来られた理由は三つです。
第一に、仕えるためです。
人に仕えられるためではありません。
第二に、自分の命を与えるためです。
人に生かされるためではありません。
第三に、これらは人間にとって本来、避けたいことですが、神様が望まれた計画だったということです。
イエスは、十字架の死に至るまで、完全に従順でした。
2.イエスの死への従順
イエスは、人にどう見られるかを気にされませんでした。
人の視線よりも、神様の視線を大切にされました。
ユダの裏切りは、悪魔の働きでした。
しかし、その悪を通してさえ、神様の御業は進められました。
バビロン捕囚も同じです。
だから私たちは、人の態度に目を奪われるのではなく、その人を通して働かれる神様を見るべきです。
パウロの人生が、その一つの例です。
Ⅲ.この箇所から分かること
1.出エジプト世代の失敗
出エジプトの世代は、神様を見ることをせず、人を見て選択しました。
エドム、モアブ、アンモンが土地を得ていたにもかかわらずです。
神様の視線よりも、人の視線を気にして選んだ結果は、荒野での死でした。
2.新しい世代の従順
新しい世代のイスラエルは、荒野で訓練され、厳しい命令にも従いました。
彼らは、
イエスと同じように従順であり、
イエスと同じように人の視線ではなく神様の視線を見つめ、
イエスと同じように、敵を通しても働かれる神様の御業を見ました。
3.荒野での放浪は無意味ではない
イスラエルが経験したように、荒野での放浪は決して無意味ではありません。
私たちも人生の荒野において、
人を恐れるのではなく、神様だけを恐れる訓練を受け、
神様の働きをこの目で見る者となりましょう。


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