20240121青年部礼拝
聖書:マタイ4:17–22, 9:9–13
題目:弟子の条件とは?
讃美:「呼んだ場所で」
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
はじめに
キリストの弟子となるためには、今自分が持っているものを手放し、神様の言葉に従って歩んでいく「従順さ」が必要です。悔い改め、福音を正しく受け入れるためには、この従順を求める祈りが欠かせません。私たちがキリストの弟子として生きるとき、聖霊によって多くの実が結ばれ、心だけでなく行動や生活そのものが変えられていくことを体験します。
1.従順は悪いことなのか?
① この世での評価
この世では「従順」に対して、否定的なイメージが持たれることがあります。
不従順な人々の見方では、従順とは何も考えずに言われたことを鵜呑みにすることであり、悪い権力者に利用される奴隷のようで良くない、と考えられます。
従順に見える人々の中にも、実際には自己評価のために我慢して従順なふりをしているだけで、本心では従いたくない人もいます。
しかし現実には、社会は従順さによって成り立っています。不従順な学生ばかりが集まる学校に入りたいでしょうか。不従順な従業員を、会社は雇うでしょうか。
このように、自分の栄光のために生きている人にとって、従順は悪いものに見えるのです。
② 神の国での評価
神の国においては、従順は不可欠なものです。なぜなら、神様の救いの計画は、人間の力や理解を超えた働きだからです。救われた者はすべて、この神様の計画に参加する者とされています。
救いの計画に必要なのは、すべてを理解できなくても、信じて従う従順さです。異端的な教えのように、盲目的に信じることや、牧師に逆らうことを許さない従順とは異なります。たとえば、夫の言葉を何も考えずに信じるのではなく、理解できなくても信頼して従う姿勢です。
ローマ書5章19節には、「一人の不従順によって多くの人が罪人となったように、一人の従順によって多くの人が義人となる」とあります。キリストに従う従順な人は、人間の理解を超えた神様の計画に参加し、従順を通して神の栄光を見ることができます。
一方で、不従順な人は自分の栄光のために生きているため、神様の計画に参加することができません。
問題は、神の国の価値観で生きるべき教会の中に、この世の価値観が入り込んでしまうことです。救いは、自分の気分次第で見るテレビドラマのようなものではなく、神の国の計画に参加する重大なプロジェクトなのです。
神の栄光のために生きる人にとって、従順は良いものです。たとえば、妻が従順であることで夫が栄光を受けるなら、それを喜ぶのと同じです。
2.イエスが選ばれた五人の弟子
① シモンとアンデレ
イエスは、ガリラヤ湖で漁をしていた兄弟、シモン(ペテロ)とアンデレに声をかけられました。「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしてあげよう」(マタイ4:19)。
アンデレはもともと洗礼者ヨハネの弟子であり、イエスがどのようなお方かを知っていました。シモンもアンデレに連れられてイエスと寝食を共にした経験があります。洗礼者ヨハネが捕らえられた後、二人はガリラヤに戻っていました。
彼らは、網も仕事も捨てて、すぐにイエスに従いました。
② ヤコブとヨハネ
次にイエスは、父ゼベダイと共に漁をしていたヤコブとヨハネを呼ばれました。ヨハネは洗礼者ヨハネの弟子で、すでにイエスを知っていましたが、ヤコブは直接イエスを知っていたわけではありません。
それでも二人は、網だけでなく父までも残して、イエスに従いました。
③ マタイ
イエスは取税人マタイにも声をかけ、「わたしに従って来なさい」と言われました。取税人は、ユダヤ社会では反逆者であり詐欺師と見なされていました。ローマに税金を納める一方で、同胞から多くを搾取し、私腹を肥やしていたからです。
マタイはその仕事を捨ててイエスに従い、取税人仲間や罪人たちを自分の家に招いて食事を共にしました。それは、自分がイエスに従ったことを人々に示す行動でした。
3.弟子たちに見られる三つの従順
① 受け入れる従順さ
イエスは「悔い改めよ。天の国が近づいた」(マタイ4:17)と語られました。悔い改めとは、心を変え、人生の方向を変えて、神様の道に戻ることです。
当時、人々はローマが問題だと考えていました。サドカイ派はローマと妥協し、パリサイ派は律法を守って壁を作り、エッセネ派は社会から逃避し、熱心党は武力で対抗しました。しかし洗礼者ヨハネとイエスは、「問題はユダヤ人自身であり、悔い改めが必要だ」と語ったのです。
弟子たちは、自分の仕事ではなく、神様の仕事に参加するという招きを受け入れました。
② 捨てる従順さ
「わたしに従いなさい」とは、単に後ろをついて行くことではありません。自分が王である人生を捨て、イエスを王、主人として迎えることです。
当時の人々は、信仰があれば富や平安が与えられると考え、メシアが来ればローマから独立できると期待していました。また、個人よりも家の繁栄が優先される社会でした。
しかしイエスは、この世の基準を捨て、神の国の基準に従うように求められました。弟子たちは、自分の基準やこの世の価値観を手放した人々でした。
③ 委ねる従順さ
イエスは「わたしがあなたがたを人間を取る漁師にする」と言われました。これは、弟子たち自身の努力によるのではなく、神様が成し遂げられるという意味です。
私たちは神様の計画に参加するだけであり、救い上げる働きは神様ご自身がなさいます。弟子たちは、自分が何かを成し遂げるのではなく、イエスにすべてを委ねました。
4.なぜ従順が必要なのか
イエスは「わたしはイスラエルの失われた羊のためにだけ遣わされた」(マタイ15:24)と言われました。イエスは自分勝手に行動されたのではなく、神の計画に従って働かれたのです。
救いの働きは、不従順や自己中心では成り立ちません。救いは最初から最後まで、100%神様の力と計画によるものです。私たちが用いられること自体が恵みであり、神様の働きを間近で目撃できる特権なのです。
5.まとめ
イエスの弟子となるために必要なのは、次の三つの従順です。
1つ目は、受け入れる従順さです。理解できなくても、神様が良いお方であると信じて従うことです。
2つ目は、捨てる従順さです。この世のもの以上に、神様が良いものを与えてくださると信じて従うことです。
3つ目は、委ねる従順さです。自分の努力や才能ではなく、神様にすべてを任せることです。
従順さは、人の力では決して見ることのできない神様の御業を見ることができる、祝福された歩みなのです。


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