20240303青年部礼拝
聖書:ルカ4:14–30
題目:イエスとナザレの人々
賛美:주 안에 있는 나에게
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
はじめに ― なぜ使命に耐える必要があるのか
私たちはなぜ、最も親しい人々に拒絶されたとしても、神様の使命に耐えるべきなのでしょうか。
それは、人間が自分のプライドのために、他人を簡単に裏切ってしまう罪深い存在だからです。
人間関係において「絶対的な平安」を求めることは幻想です。
神様のせいで壊れる関係は、遅かれ早かれ必ず壊れます。
しかし私たちが、イエスのように困難の中でも聖霊の導きに従い、
人々を罪の鎖から解放するという神様の使命を全うする時、
その解放された人々と、より深く、より真実な関係を築くことができます。
だからこそ私たちは、神の国の民として、神様との関係を最優先にして生きるのです。
1.導入:三匹の子豚のたとえ
① あらすじ
三匹の子豚は、お母さんのもとを離れ、それぞれ家を建てました。
長男は麦わらの家、次男は木の家、三男はレンガの家を建てます。
狼がやって来ると、長男と次男の家は、狼の息によって簡単に壊され、二匹は食べられてしまいました。
しかし、三男のレンガの家は壊れませんでした。
狼は煙突から入ろうとしますが、それに気づいた三男は、大きな鍋で熱湯を沸かして準備します。
何も知らずに飛び込んだ狼は命を落とし、三男の食事になったのでした。
② 教訓
時間がかかり、しんどいことであっても、しっかりしたものを建てることが大切です。
そうすれば命を守ることができ、豚であっても狼に勝つことができます。
私たちクリスチャンも同じです。
辛くても神様に従い続けるなら、命を守られ、悪魔にも勝つことができるのです。
2.ナザレで起こった出来事
① 背景
イエスは、サマリヤからガリラヤへ、そしてカナを経てナザレへと来られました。
聖霊の導きを受け、ガリラヤ地方の諸会堂で教えを語っておられました。
カナでは水をぶどう酒に変え、
離れたカペナウムにいる役人の息子を癒す奇跡も行われました。
② ナザレの会堂での出来事
イエスは、いつものように安息日に会堂に入り、立って聖書の朗読をされました。
朗読されたのは、イザヤ書61章1–2節aです。
その後、座ってこう語られました。
「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した。」
これは、「あなたがたが待ち望んでいたメシアは、私である」という宣言でした。
人々は、イエスの口から出てくる恵みの言葉に感動しました。
③ ナザレの人々の高慢
人々は言いました。
「この人はヨセフの息子ではないか。」
これは、
「ヨセフの息子のくせに」という見下しでもあり、
「ヨセフの息子にしては立派だ」という高慢でもありました。
イエスは、その賞賛の中に潜む高慢を見逃されませんでした。
イエスは言われました。
「あなたがたは『医者よ、自分自身を癒せ』と言うだろう。」
つまり、「カペナウムで行ったような奇跡を、ここでも見せてみよ」という意味です。
奇跡を求める心は、イエスを信じるためではなく、評価するためでした。
さらにイエスは言われました。
「預言者は、自分の故郷では歓迎されない。」
イエスはイザヤ書を通して、ご自身がメシアであることを語っていましたが、
ナザレの人々は霊的な目が閉じられ、
「信仰深いヨセフの息子」としてしか理解できませんでした。
サマリヤの女性はすぐに理解しましたが、
最も近いナザレの人々は理解できなかったのです。
④ 「よく聞いておきなさい」という警告
イエスは、エリヤとエリシャの例を語られました。
イスラエル全土が三年半の大飢饉で苦しんでいた時、
エリヤが遣わされたのは、バアル崇拝を持ち込んだイゼベル王女の出身地、シドンのやもめでした。
また、イスラエルに多くの重い皮膚病の人がいたにもかかわらず、
エリシャによって癒されたのは、敵国アラムの将軍ナアマンだけでした。
これは、ナザレの人々が高慢によって救いを逃すことを示しています。
イエスが馬鹿にされて怒っているのではなく、霊的な事実を語っておられたのです。
⑤ 人々の態度
人々は怒りに満ち、イエスを捕まえ、崖から突き落として殺そうとしました。
会堂とは、本来、抑圧された世界で生きる人々が
自分のアイデンティティを回復する場所です。
しかしイエスの言葉は、彼らの自尊心を深く傷つけました。
それでも、聖霊に満たされたイエスは、彼らの間を通り抜けて去られました。
聖霊に導かれ、使命に生きる人は、神様の時が来るまで死なないのです。
⑥ この物語の意味
この出来事は、イエスの生涯全体の縮図です。
ルカが福音書の初期にナザレの出来事を置いたのには、はっきりした理由があります。
イエスは恐れてガリラヤに逃げたのではありません。
福音がユダヤ人に拒絶され、異邦人に先に受け入れられることを示しています。
宣教は、ユダヤでもサマリヤでもなく、
異邦人の地ガリラヤから始まり、
故郷ナザレではなく、30km離れたカペナウムから本格的に進みました。
先の者が後になり、後の者が先になる――
その霊的原則がここに示されています。
3.適用 ― なぜ使命に耐えるのか
① 人間関係は罪によって脆い
人はプライドのために、他人を簡単に裏切る罪深い存在です。
30年近く一緒に過ごしたナザレの人々もイエスを殺そうとしました。
3年間共に歩んだ弟子たちでさえ、イエスを置いて逃げました。
人間関係における絶対的な平安は幻想です。
家族であっても、感情やプライドによって簡単に壊れます。
本当に大切なのは、脆い人間関係ではなく、神様との関係です。
② 神の計画は必ず実現する
神様の計画は、誰にも邪魔できません。
ナザレの人々も、パリサイ人も、イエスを勝手に殺すことはできませんでした。
イエスは、十字架という神の計画の中で死に、
そして計画通りによみがえられました。
私たちも、聖霊の導きによって神様の計画に参加する時、
神様の時が来るまで守られ、
たとえ死んでも生きるのです。
③ 壊れた人間関係は神様を通して回復される
神様の使命は、罪によって霊の目が閉じられた人々を目覚めさせることです。
それは人の力ではなく、聖霊を通して働かれる神の力によります。
裏切ったペテロも、復活したイエスと出会い、関係が回復されました。
彼は命をかけてイエスに従う者となりました。
霊的に目覚め、罪から解放された人々との関係こそが、最も強い関係です。
諦めきれない人間関係があるなら、なおさら神様との関係を優先すべきです。
4.まとめ
なぜ私たちは、最も親しい人々に拒絶されても、神様の使命に耐えるべきなのでしょうか。
① 人間関係は罪のために脆い
人の作る関係は、わらや木の家のように簡単に壊れます。
② 神の計画は必ず実現する
神様の作る関係は、レンガの家のように決して壊れません。
③ 壊れた人間関係は神様を通して回復される
レンガの家に住むことで、他の問題も解決されていきます。


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