20240407青年部礼拝
聖書:ルカ10:25–37
題目:善良なサマリヤ人の比喩
讃美:그 주의 사랑으로
説教:高曜翰 副牧師
場所:중앙성서교회
はじめに:このたとえから分かる三つのこと
イエスと律法学者の会話から、私たちは三つの大切なことを学ぶことができます。
第一に、人は律法を守ろうとする努力によってではなく、ただ神様の憐れみによってのみ救われるということです。
第二に、私たちは強盗に襲われ、死にかけていたユダヤ人のような存在であり、イエスこそがサマリヤ人のようなお方であるということです。
第三に、神様が救われた私たちに望んでおられるのは、神様を愛し、イエスのように憐れむ者として生きることです。
私たちは、この律法学者のように自分を誇るのではなく、
自分がかつて死にゆく憐れな存在であったことを自覚し、
イエスのように人を憐れむ存在になりましょう。
1.善良なサマリヤ人の比喩が持ち出される背景
① Good Samaritan Law(スライド1)
「善良なサマリヤ人の法(Good Samaritan Law)」とは、
窮地にある人を救助するために善意で行動した場合、たとえ失敗しても結果責任を問わない法律です。
これは助けた人を保護する法律で、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどで施行されています。
一方、日本にはこれに似た法律がなく、
人々は法的責任を負うことを恐れて、助けることをためらう傾向があります。
また、このような状況の中で、注目を浴びたいYouTuberなどが救助活動の妨げになる恐れもあります。
※中国では、助ける前に証拠として写真を撮る文化もあります。
② この比喩の間違った使われ方
このたとえは、次のように使われることがあります。
・社会正義のために、どんなに偉い人でも弱者を労わりましょう
・「誰が隣人か?」という問いに対して、「弱い人も隣人です」と答える
・聞く人をサマリヤ人の立場に立たせて考えさせる
しかし、イエスの本当のポイントはそこではありません。
2.イエスと律法学者の対話から分かること
① 律法学者の試み(スライド2–5)
ある律法学者が、イエスを試みようとして質問しました。
「先生、何をしたら永遠の命を得られますか。」
この質問は、本気で救いを求めるものではなく、
自分の知識を誇示するための質問でした。
イエスは逆に問い返されます。
「律法には何と書いてあるか。あなたはどう読むか。」
学者は正しく答えました。
「主なる神を愛せよ。自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ、とあります。」
するとイエスは言われます。
「あなたの答えは正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば命が得られる。」
これは学者を褒めた言葉ではなく、
人間には実現不可能な水準であることを示す言葉でした。
そこで学者は、自分を正当化しようとして尋ねます。
「では、私の隣人とは誰のことですか。」
これは従うための質問ではなく、
隣人の範囲を狭めて自分を正しく見せようとする軌道修正でした。
そして、イエスはこのたとえ話を語り始めます。
② イエスのたとえ(スライド6–14)
エルサレムからエリコへ下っていく道で、
一人のユダヤ人が強盗に襲われ、着物を奪われ、半殺しにされました。
最初に祭司が通りかかりましたが、彼は見て見ぬふりをして通り過ぎました。
次にレビ人も通りかかりましたが、同じように無視しました。
ところが、サマリヤ人が通りかかり、
彼はその人を見て気の毒に思い、オリブ油とぶどう酒で傷を手当てし、包帯を巻きました。
自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行き、一晩介抱しました。
さらに、二デナリを宿屋の主人に渡し、費用が足りなければ後で支払うと約束しました。
イエスは問いかけます。
「この三人のうち、誰が強盗に襲われた人の隣人になったと思うか。」
律法学者は答えます。
「その人に慈悲深い行いをした人です。」
彼は「サマリヤ人」という言葉を口にしたくありませんでした。
そしてイエスは言われます。
「あなたも行って、同じようにしなさい。」
③ 私たちはユダヤ人であり、イエスはサマリヤ人である(スライド15)
このたとえにおいて、私たちは強盗に襲われ、死にかけていたユダヤ人です。
私たちは、サマリヤ人の一方的な憐れみによって命を救われた存在です。
私たちが救われたのは、イエスの味方だったからではありません。
まだ罪人であった時に、イエスは私たちのために死なれました。
ユダヤ人はサマリヤ人を避ける道を選びましたが、結局サマリヤ人に出会いました。
同じように、私たちもイエスを避けていましたが、
イエスの方から私たちに会いに来てくださいました。
④ 救いは努力ではなく、神の憐れみによる(スライド16)
律法学者は、律法を守るという自分の努力によって救われていると勘違いしていました。
イエスは、この根本的な誤りに気づかせようとされたのです。
誰も律法を完全に守ることはできません。
律法を守っていることは、自慢できることではありません。
また、律法そのものには、死にゆく人を救う力はありません。
祭司やレビ人は、律法の代表的存在でした。
⑤ 神様が望まれること(スライド17)
神様が望んでおられるのは、
イエスのように憐れむ人になることです。
隣人を愛するとは、敵を愛することです。
無理に絞り出した愛ではなく、溢れ出る愛で愛することです。
自分の行いを誇るための慈悲ではなく、
義務として行う慈悲でもありません。
愛されやすい隣人を選ぶのではなく、
愛を与える隣人になること。
神様は、私たち自身が慈悲深い人になることを望んでおられます。
3.まとめ(スライド18)
1.このたとえにおいて、私たちはまず死にかけていたユダヤ人です。
2.律法や人の努力によって、人は救われません。
3.神様が望まれるのは、私たちがサマリヤ人のように慈悲深い人になることです。
私たちは、この律法学者のように自分を誇るのではなく、
自分が死にゆく憐れな存在だったことを自覚し、
イエスのように人を憐れむ存在として生きていきましょう。


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