20240818青年部礼拝
聖書:マタイ26:26-30
題目:最後の晩餐
賛美:예수 피를 힘입어
説教:高曜翰
Ⅰ.はじめに ―「最後の晩餐」とは何か
「最後の晩餐」と聞くと、多くの人がレオナルド・ダ・ヴィンチの絵を思い浮かべます。
1498年に完成したあの作品は、イエスと弟子たちが横一列に椅子に座って食事をしている、画期的な構図でした。その影響は非常に大きく、多くの人が「あれが聖書の最後の晩餐の姿だ」と思うようになりました。
しかし実際のユダヤ文化では、当時の人々は横になって食事をしていました。つまり、あの絵は芸術作品であって、歴史的事実そのものではありません。
にもかかわらず、現代ではそのイメージを前提に「冒涜だ」「歪曲だ」という議論が起こります。ダ・ヴィンチ・コードのような作品も同様です。しかし、たとえ誰かが神様を冒涜しているように見えても、復讐は神様のものです。私たちが攻撃する必要はありません。
今日大切なのは、芸術や論争ではなく、聖書が語る本当の最後の晩餐の意味です。
修練会に目的があるように、聖餐式にも明確な目的があります。
今日はそれを共に学びたいと思います。
Ⅱ.本文解説
① 過越の祭りの背景
最後の晩餐は、過越の祭りの食事でした。
過越の祭りはユダヤ暦1月14日から21日まで続く春の祭りで、神様がイスラエルをエジプトの奴隷から解放してくださった救いの日を記念するものです。
種なしパンを食べるのは、急いで出エジプトしたため発酵させる時間がなかったことを思い出すためです。苦菜を食べるのは、エジプトでの苦しみを思い出すためです。そして傷のない子羊をほふり、その血を塗り、その肉を食べることで、死から救われた出来事を記憶しました。
動物の肉と血の匂いは、人間の罪深さと、神の契約の民として生きる使命を、体で覚えさせるものでした。
つまり過越の祭りは、単なる記念日ではありません。
「自分たちは誰なのか」を思い出すアイデンティティの祭りだったのです。
② パン ― わたしのからだ
イエスはパンを取り、裂いて言われました。
「取って食べよ。これはわたしのからだである。」
これは、過越の子羊の代わりに、罪のないイエスご自身の体が裂かれることを意味しています。
そのパンを食べるとは、「私の代わりにイエスが裂かれた」という事実を受け入れることです。そして、繰り返し食べることで、その恵みを忘れないためなのです。
③ 杯 ― 契約の血
さらにイエスは杯を取り、こう言われました。
「これは多くの人のために流す、わたしの契約の血である。」
聖書は「命は血にある」と語ります。血は命そのものです。だから旧約では血は贖いの手段として用いられ、血が流されなければ罪の赦しはありませんでした。
しかし動物の血は一時的なものでした。完全な救いは与えられません。
ただイエスの血だけが、永久に有効な救いを完成させました。
命を得る代償は命です。
私たちが生きるために、キリストが死なれたのです。
この血の契約によって、私たちは神の国の民となりました。
④ オリブ山への道
イエスは言われました。
「父の国で新しく飲むその日まで、もうぶどう酒は飲まない。」
ぶどう酒は喜びの象徴です。次に飲む時は、神の国での勝利の祝宴の時です。
つまり、この晩餐は地上での最後の食事でした。
それでもイエスは逃げませんでした。
賛美を歌い、オリブ山へ進まれました。
そこは祈りの場所であり、十字架へ向かう道でした。
イエスは使命から逃げなかったのです。
Ⅲ.聖餐式によって記憶すべき三つのこと
① 罪と死から解放されたこと
イエスの犠牲によって、私たちは罪と死から解放されました。
これは私たちの努力ではありません。
100%恵みです。
だから私たちは誇ることができません。
② 私たちは血の契約の中にいること
子羊の血によってイスラエルが守られたように、
私たちはイエスの血によって守られています。
動物の血でも、自分の努力でもありません。
キリストの血だから完全なのです。
私たちはただ受け取るだけでよいのです。
③ 同時に使命が与えられていること
しかし、ここで終わりではありません。
私たちが先に救われたのは、まだ救われていない人のためです。
律法主義のように自分を誇るためでもなく、
祈福信仰のように自分の人生を豊かにするためでもありません。
恵みは、私たちを使命に情熱的にさせます。
イエスがあなたのために体を裂かれ、血を流して死なれたのに、
どうして私たちは自分の成功だけを求めて生きられるでしょうか。
Ⅳ.まとめ
聖餐式は三つのことを私たちに思い出させます。
第一に、パン。
イエスの体が裂かれ、私たちは解放されたという事実。
第二に、ぶどう酒。
私たちは血の契約の中にいるという事実。
第三に、オリブ山への道。
私たちにも使命が与えられているという事実。
救われたから自由に生きるのではありません。
救われたからこそ、人を救うために生きるのです。
イエスが仕えられるためではなく、仕えるために歩まれたように、
私たちも忍耐をもって暗闇の中へ進んで行きましょう。
その先には、必ず復活の光が待っています。


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