20240929青年部礼拝
聖書:ルカ24:24–35
題目:エマオへの道
賛美:우린 주를 만나고
説教:高曜翰 副牧師
序論 ― エマオへ下る二人
クレオパという弟子が、もう一人の弟子と共に、エルサレムからエマオへと下っていました。
それは、イエスの死を知って失望していたからです。
彼は仲間から「墓は空だった」という知らせを聞きましたが、それでも復活を信じることはできませんでした。
しかし、その道の途中で出会った「ある男」から、聖書に預言されているメシアについて説明を受け、霊的な目が開かれました。そして復活を受け入れた瞬間、その男が復活したイエスであることに気づきます。
イエスが姿を消された後、彼は十一弟子たちに復活の知らせを伝えるため、希望をもってエルサレムへ戻りました。
同じように、私たちも聖書が伝える復活の王イエスを経験するとき、霊的な目が開かれ、希望に生きる存在へと生まれ変わることができます。
聖書を通してイエス・キリストに出会い、イエスと同じ道を歩んでいきましょう。
1.なぜ墓参りをするのか
① 死後の世界観の違い
人はなぜ墓参りをするのでしょうか。それは死後の世界観と深く関係しています。
ヒンズー教や仏教では、輪廻転生や悟りによる極楽浄土が語られます。基本的に魂は墓にはありません。
キリスト教やイスラム教では、死後は黄泉の世界へ行き、信仰によって楽園に入ると教えます。ここでも魂は墓にはありません。
しかし先祖崇拝では、死者の霊がこの世に働きかけると考えます。墓に魂があり、丁寧に祀れば祝福があり、そうでなければ祟りがあると考えます。
② 間違った信仰生活
私たちの信仰も、知らないうちに間違った形になることがあります。
第一に、祈福信仰です。
一生懸命信仰生活をすれば祝福され、そうでなければ神の怒りを受けるという考え方です。
第二に、ユダヤ人の誤った理解です。
神に愛されている証拠は富であり、貧しい者は罪人であると考えました。
第三に、律法主義です。
聖書を祝福を受けるための道徳プログラムのように考えてしまうことです。
2.エマオへの道(ルカ24:13–35)
① クレオパともう一人の弟子
クレオパともう一人の弟子は、おそらく七十人の弟子のうちの二人でした。
クレオパという名は「父の栄光」という意味を持ちます。
彼らは日曜日の午後、イエスの死に失望し、エルサレムを離れました。
十字架の死について語り合いながら歩いていました。
② ある男との出会い
その時、「ある男」が近づき、「何の話をしているのか」と尋ねました。
彼らは驚いて、「エルサレムにいながら知らないのですか」と答えます。
当時、巡礼者同士が道で語り合うことはよくありました。
彼らは言いました。
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イエスは力ある預言者だった。
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しかし祭司長や役人たちが十字架につけた。
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イスラエルを救う方だと望みをかけていたが、その望みは潰えた。
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仲間の女性たちが墓は空で、イエスは生きていると言った。
するとその男は言いました。
「愚かで心の鈍い者たちよ。キリストは苦難を受けて栄光に入るはずではなかったのか。」
そしてモーセからすべての預言者に至るまで、聖書全体からメシアについて説き明かされました。
旧約聖書全体がキリストを指し示していることを教えられたのです。
③ エマオの晩餐
夕方になり、彼らはその男を引き止めました。
一緒に食卓につき、パンを取り、祝福し、裂いて渡されたとき、
彼らの目が開かれ、それがイエスであることがわかりました。
その瞬間、イエスの姿は見えなくなりました。
④ エルサレムへの道
彼らは互いに言いました。
「道で聖書を説き明かしてくださった時、心が燃えたではないか。」
すぐに立ち上がり、夜であるにもかかわらずエルサレムへ戻りました。
そして十一弟子たちに復活の事実を伝えました。
3.解説
① 聖書全体はイエス・キリストについて語っている
なぜイエスは「愚かで鈍い」と言われたのでしょうか。
それは聖書を正しく理解していなかったからです。
パリサイ人と同じように、聖書を道徳プログラム程度に考えていました。
だから復活したイエスを見ても気づかなかったのです。
旧約聖書は「来られるキリスト」、新約聖書は「来られたキリスト」を教えます。
聖書のどこを切ってもイエスの血が流れています。歴史の中心は私ではなくイエスです。
「聖書はわたしについて証しするものである」(ヨハネ5:39)
聖書は永遠の命の知識そのものではなく、イエスを指し示す証しです。
イエスを知るために聖書を読むことが大切です。
② イエスを知ることは新しい人生の準備
復活後の40日間、イエスは多くの人に現れました。
それは、間違った考えを捨て、新しい理解に導く準備期間でした。
祝福を得るためではなく、十字架と復活の観点から聖書を理解させるためでした。
イエスを通して霊的な目が開かれ、見えないものが見えるようになります。
この世の成功ではなく、神との和解に目を向けるようになります。
「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させてくださった」(Ⅱコリント5:18)
神との和解こそ、真に生きる人生の始まりです。
③ 真の希望はイエスと共に歩む人生
なぜイエスは認識された瞬間、姿を消されたのでしょうか。
それは、見えなくても信じて歩めるようにするためです。
神との和解は、十字架の愛と復活の希望を与えます。
和解以上に素晴らしいものはありません。
何も持っていなくても平安があります。
使命をもって大胆に進むことができます。
思い通りにいかなくても感謝できます。
神が共におられるからです。
④ どんな道を歩む人生を送るのか
足りないと不満ばかり言い、怯え、怒る人生を送りたいですか。
それとも、何もなくても感謝し、大胆に行動し、動揺しない人生を送りたいですか。
心に傷があるなら、その問題をイエスのもとに置いてください。
母を失った傷を、妻に求めることはできません。
ハンバーガー屋でピザを求めるようなものです。
教会に来るなら、母の問題をイエスで満たしてください。
すべての人の心には喪失感があります。
クレオパも、墓参りをする人々も、イエスを十字架につけた人々もそうでした。
私自身も外国人として育ち、日本にも完全に馴染めず、かつての韓国も変わってしまいました。
誰もが喪失感の中で生きています。
その心を埋められるのはイエス・キリストだけです。
もし満たされないなら、それはまだ十分にイエスを知らないからです。
4.まとめ
① 聖書全体はイエス・キリストについて教えている。
② イエスを知ることは新しい人生の準備である。
③ 真の希望はイエスと共に歩む人生にある。
エマオへ下る道ではなく、
復活の主と共にエルサレムへ戻る人生を歩みましょう。


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