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イエスとの出会い(使徒行伝9:1–9)
고요한 2026-03-05 추천 0 댓글 0 조회 30

 

20250318早天祈祷会

聖書:使徒行伝9:1–9
題目:イエスとの出会い
賛美:400、401

説教:高曜翰 副牧師

場所:大阪中央教会


1.本文解説

(1)サウロについて

サウロは、キリキヤ州の首都タルソ出身でした。タルソは学問の町として知られており、当時の知識人が集まる都市でした。また、この町はローマの将軍アントニウスとエジプトの女王クレオパトラが出会い、恋に落ちた場所としても有名です。

サウロはローマ市民でもありました。彼の父、あるいは祖父の時代にローマ市民権を獲得したと考えられています。当時、ローマ市民になる方法は、公務に功績を立てるか、お金を払って市民権を得るかのどちらかでした。そのため、サウロの家は社会的に高い身分の家庭であったと考えられます。

彼はギリシャ語圏に住むユダヤ人でしたが、ヘブル語とユダヤの律法についても厳しく教育を受けました。ベニヤミン族に属し、イスラエルの王と同じ名前である「サウロ」という名が与えられました。そして、生後八日目に割礼を受け、律法に忠実な家柄の中で育てられました。

ラビになるために厳しい教育を受け、律法を徹底的に守る生活をしていました。まさに「ヘブル人の中のヘブル人」と呼ばれるような人物でした。

サウロは非常に情熱的な人物でした。彼はエルサレムに上り、当時非常に有名だった律法学者ガマリエルの弟子となりました。そしてパリサイ派として、律法を守ることによって救いを得ようと一生懸命に生きていました。

しかしその熱心さは、イエスを信じる者たちを迫害する方向に向かいました。エルサレムやユダヤの家々に入り込み、クリスチャンたちを捕らえて牢に入れていました。それでもなお、イエスを信じる人々への怒りは収まりませんでした。


(2)ダマスコへの道

サウロはさらに迫害を進めるため、大祭司のところへ行き、逮捕状を求めました。目的は、ダマスコの会堂に集まるキリスト者たちを逮捕することでした。

ダマスコには大きなユダヤ人共同体があり、多くの会堂が存在していました。そのため、キリスト者たちもそこに集まっていたと考えられます。

ダマスコは、ピラトの支配下にあったユダヤとサマリヤ、そしてヘロデ・アンティパスが治めていたガリラヤの地域を越え、ヘロデ・フィリポの支配地域に位置していました。エルサレムからダマスコまでは約240kmあり、馬で移動しても約6日ほどかかる長い旅でした。

当時、ローマの支配のもとで、大祭司にはユダヤ人共同体に対して一定の権威が認められていました。そのためサウロは、大祭司の代理としてキリスト者を逮捕する権限を持っていたのです。


(3)イエスとの出会い

サウロがダマスコの近くに来たとき、突然「太陽よりも明るい光」に照らされました。その光はあまりにも強く、彼の目は見えなくなりました。そして彼は馬から落ちて地面に倒れました。

そのとき、声が聞こえました。

「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」

神に仕えていると思っていたサウロにとって、この言葉は大きな衝撃でした。そこで彼は尋ねました。

「主よ、あなたはどなたですか。」

すると声はこう答えました。

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立って町に入りなさい。そうすれば、あなたのすべきことが告げられる。」

この時サウロは、声の主が誰なのか完全には理解していませんでした。天使なのか、それとも別の存在なのか、はっきりとは分からなかったのです。

サウロは目が見えなくなったため、同行していた人々に手を引かれてダマスコへ連れて行かれました。同行者たちは光を見て声も聞きましたが、イエスの姿を見ることはできず、その声の意味も理解することができませんでした。

ダマスコに到着したサウロは、三日間、何も見えず、また食べることも飲むこともしませんでした。本来なら会堂に行き、クリスチャンたちを逮捕するはずでした。しかしそれはできなくなりました。

サウロにとって、この三日間はまるで死んだような時間でした。それまで自分が築き上げてきた信仰と人生が、すべて崩れてしまったからです。


2.適用

“おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。”
(ピリピ2:8)

(1)私たちは自分を低くして仕える者になろう

この世の人々は、人でありながら神のようになりたいと願います。自分の思い通りに人生を支配したいと考えます。

しかしイエスは、神でありながら人となられました。そして自分の思いではなく、神の御心に従って生きられました。

私たちは、このイエスに従う者です。だからこそ、自分を低くして仕える者として生きるべきです。


(2)神様が私たちを低くされる

クリスチャンになった人々は、ある意味で神様によってつまずかされた人たちでもあります。神様は高慢な者をそのままにはされません。

サウロは、自分を高めながら生きてきました。しかし神様は彼と出会い、彼を飲み食いできないほどの状態にされました。まるで死んだ人のような三日間を経験させたのです。

私たちも同じです。神様は時に、私たちを低くされることがあります。


(3)死んだ者のようになった時、ひざまずこう

この世の人々は、自分が積み上げてきたものが崩れたとき、引き返すことができません。自尊心がそれを邪魔するからです。

しかし、もしその時にひざまずいて悔い改めるなら、人は神の人として新しく生まれ変わることができます。パウロも今、そのような機会の中に置かれていました。

私たちも、自分の思い通りにならない時こそ、ひざまずきましょう。そして神様の声を聞きましょう。


3.まとめ

イエスを信じる者は、自分を低くする存在です。この世の人は自分を高めようとしますが、私たちは違います。

もし私たちが自分で低くなることができなければ、神様が私たちを低くされます。神様はパウロに出会われたように、私たちにも出会ってくださるからです。

その時、私たちは死んだ者のようになって神の前にひざまずきましょう。そうするなら、私たちは新しい人生を歩み始めることになります。

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