20250404早天祈祷会
聖書:使徒11:1-10
題目:指導者ペテロの弁明
賛美:333、341
説教:高曜翰 副牧師
場所:大阪中央教会
1.本文解説
(1)ペテロの行動がユダヤ全体に広まった
使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神の言葉を受け入れたという知らせを聞きました。
これは、ペテロがエルサレムに帰る前からすでに噂が広まっていたことを意味します。
カイザリヤで起きた出来事は、エルサレムだけでなくユダヤ全体に伝わっていました。
しかもその内容は、エルサレム教会の中心的指導者であるペテロの行動に関するものでした。
そのため、ペテロがエルサレムに上ったとき、ユダヤ人の信者たちは彼を非難しました。
本来であれば、人々が救われたという喜ばしい知らせであるはずなのに、彼らはそれを問題視したのです。
ここで言う「割礼を受けた者たち」とは、生まれながらのユダヤ人信者のことです。
つまり、エルサレム教会全体がペテロを批判したと言ってもよい状況でした。
サマリヤ人の救いの場合とは違いがありました。
サマリヤ人はユダヤ人と対立関係にありながらも、同じ民族的ルーツを持つ「半分兄弟」のような存在であったため、ある程度受け入れられていました。
しかし、異邦人の救いは完全に想定外の出来事だったのです。
(2)問題とされたのは「食事を共にしたこと」
人々が問題にしたのは、ペテロが異邦人に福音を語ったことではありませんでした。
彼が異邦人の家に入り、共に食事をし、生活を共にしたことが非難の対象となったのです。
当時、ユダヤ人にとって異邦人との交わりは禁じられていました。
なぜなら、汚れていると考えられていた異邦人と食事を共にすれば、自分自身も汚れると考えられていたからです。
いわば「同じ釜の飯を食うこと」が問題だったのです。
ペテロは、してはならないことをしたと見なされました。
もともと衝動的な行動をとる人物として知られていたペテロですが、今回ばかりは「行き過ぎだ」と受け止められました。
さらに、この行動には悪影響も懸念されました。
ユダヤ人たちは、異邦人と親しくしている人の言葉を聞かなくなる可能性があります。
サウロの回心以降、比較的平和であった状況が崩れる恐れもありました。
また、ステパノが命をかけて行ったユダヤ人伝道の働きが無駄になるのではないか、という不安もあったのです。
(3)ペテロの弁明
それに対してペテロは、順序立てて丁寧に説明を始めました。
彼は、自分の判断ではなく、神の導きによって行動したことを明らかにしようとしたのです。
まず、天から大きな布のようなものが降りてきた幻について語りました。
彼はそれを注意深く見たと強調しています。
そこには、清い動物と清くない動物が共に入っていました。
次に、天からの声について語ります。
その声はペテロの名前を呼び、「立って、それらを食べなさい」と命じました。
しかしペテロは、それを三度も拒みました。
すると天から、「神がきよめたものを、清くないと言ってはならない」という言葉が語られました。
この出来事が三度繰り返された後、すべては再び天に引き上げられたのです。
2.適用
(1)人間の考えによる反対が起こる
エルサレムの使徒たちや信者たちは、ペテロを批判しました。
それは、口伝律法によって禁じられていることを彼が行ったからです。
彼らは、ユダヤ人伝道への悪影響や迫害の激化、教会の平和の崩壊を心配していました。
しかし、本当に大切なのは「人が救われること」です。
イエスご自身も同じような経験をされました。
家族はイエスを連れ戻そうとしました。悪霊につかれているという噂が広まり、家の評判が悪くなることを恐れたからです。
マリヤはナザレからカペナウムまで、約50kmの距離を移動してきました。
それでもイエスは、家族ではなく、神の御心を行う人こそが本当の家族であると言われました。
そしてナザレには戻られませんでした。
教会の中でも同じことが起こります。
人は自分の考えや伝統を基準にして反対することがあります。
しかし、そのような反対が福音の妨げになることもあります。
文化や慣習が、かえって救いを妨げてしまうこともあるのです。
(2)指導者は「神から出たものか」を見分ける
ペテロは、自分の経験を順序立てて説明しました。
それは、自分の考えではなく、神の導きによるものであることを伝えるためです。
イエスもまた、自分の言葉ではなく、神から与えられた言葉を語っていると説明されました。
イエスの行動の基準は常に天の父なる神でした。
私たちも同じです。
判断の基準が自分ではなく、神であることを説明する必要があります。
ただし、自分を正当化するために神の言葉を利用してはいけません。
神の導きを、相手にも分かるように誠実に語ることが大切です。
そして、それを受け入れるかどうかは相手に委ねるべきです。
(3)神の基準で弁明する
神はしばしば、世の常識を超えて働かれます。
もし私たちが世の基準だけで判断するなら、神の働きを否定してしまう危険があります。
規定や伝統は大切ですが、その本質がどこにあるのかを見極める必要があります。
最終的な判断基準は、神の御言葉です。
否定されたとき、人は感情的になりがちです。
しかし、そのまま応答するのではなく、まず神の言葉を思い出すべきです。
ペテロの行動は、人々が怒るのも無理のないものでした。
それでも彼は、自分勝手に行動したのではありません。
神の導きによるものであることを、理解できるように説明する責任がありました。
そしてエルサレム教会は、噂ではなく、ペテロ自身の説明を聞いて判断しようとしたのです。
3.まとめ
私たちはしばしば、人間の考えによって反対してしまいます。
文化や伝統、規定も大切ですが、最終的な判断は神の御言葉によるべきです。
指導者は、自分や世の基準ではなく、神の基準によって語り、説明できる者であるべきです。
今日一日も、自分の考えではなく、御言葉に従い、神の基準で判断し、語ることができるように歩んでいきましょう。
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