20250513早天祈祷会
聖書:使徒15:1-5
題目:救いの条件
賛美:421、425
説教:高曜翰 副牧師
場所:大阪中央教会
1.本文解説
(1)アンテオケ教会で起こった問題
アンテオケ教会に、ユダヤから下って来た人々が現れ、兄弟たちを厳しく糾弾しました。
彼らは、「モーセの慣例に従って割礼を受けなければ救われない」と教えたのです。
しかし、この人々はエルサレム教会から正式に遣わされたわけではありませんでした。
彼らは救いの条件として割礼を挙げましたが、エルサレム教会はすでに、割礼を受けていないコルネリオの救いを認めています(使徒11:18)。
それにもかかわらず、彼らはその事実を忘れているか、あるいは無視していました。
また、アンテオケ教会で約2年間行われてきた異邦人伝道の実りも軽視していました。
彼らは、異邦人が救われるためにはユダヤ教に改宗しなければならないと考えていました。
そのためには割礼が必要だと主張したのです。
しかし実際には、モーセの律法はイエス・キリストによって成就されており、救いの条件ではありません。
この問題によって、パウロとバルナバの間に激しい議論が起こりました。
このままでは教会が分裂する恐れがあったため、彼らはエルサレム教会へ行き、使徒たちや長老たちと協議することになりました。
彼らが危惧していたことも理解できます。
異邦人信者が急激に増えることで、教会の純粋性が損なわれるのではないかと恐れていたのです。
異邦人信者は律法に無知であり、偶像崇拝の背景を持っています。
さらに、ギリシャ語圏のユダヤ人が増えたときでさえ教会に問題が生じた経験がありました。
そのため、異邦人信者の増加はユダヤ人伝道を難しくするのではないかとも考えていました。
結果として、彼らは異邦人にユダヤ人の習慣(律法)を条件として課そうとしたのです。
(2)エルサレム教会への報告と対立
パウロたちはエルサレムへ向かう途中、ピニケやサマリヤを通りながら、異邦人が主に立ち返ったことを詳しく伝えました。
それを聞いた兄弟たちは大いに喜びました。
エルサレムに到着すると、教会、使徒たち、長老たちは彼らを歓迎し、神が共にいて行われたすべての働きの報告を受けました。
しかし、そこでも問題が起こります。
パリサイ派から信仰に入った人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を施し、律法を守らせるべきである」と主張したのです。
パウロ自身も元パリサイ人であったため、彼らの考えや不安はよく理解できたでしょう。
彼らは、救いのために割礼が必要であり、さらに聖化のためには律法を守るべきだと考えていました。
2.適用
(1)義認と聖化は信仰による
義認も聖化も、その条件は信仰であり、人間の行いによるものではありません。
人の努力や行いは、救いにおいて何の役にも立たないのです。
救いは自己満足ではなく、神の恵みによって与えられるものです。
それにもかかわらず、条件を設けることは、義認と聖化の妨げとなります。
それは、ようやく本当の父に出会えたのに、「子どもになるための条件」を後から付け加えるようなものです。
また、混乱を恐れて真理を曲げることも間違いです。
確かに異邦人信者の増加は教会にさまざまな問題をもたらすかもしれません。
しかし、そのために間違った教えを受け入れることは決して許されません。
(2)変化を恐れず、救いを喜ぶ教会へ
古い教会には、しばしば次のような問題があります。
自分たちの作り上げたスタイルに強い自信を持ち、それを変えずに人を増やそうとすることです。
しかしそれは、神の栄光ではなく、自分たちの栄光を求めている可能性があります。
私たちに必要なのは、「それが聖書の教えに合っているかどうか」という基準です。
それ以外に固執するなら、知らず知らずのうちにパリサイ的な律法主義に陥ってしまうかもしれません。
自ら無理に変わる必要はありませんが、変化を受け入れる心は必要です。
それは自分のためではなく、神の栄光のためです。
そして最も大切なのは、神の御言葉です。
イエス様は、「必要なことは一つだけである」と語られました(ルカ10:42)。
どれほど時代が進み、インターネットが発達しても、教会において大切なのは、共に集まり、御言葉に聞き従うことです。
日曜日の礼拝、教会の建物、クリスマス、飲酒など、さまざまな事柄においても、律法主義に陥らないよう注意する必要があります。
3.結論
私たちは何かを決定するとき、常に覚えておくべきです。
義認も聖化も、人の行いによるのではなく、ただ信仰によるのです。


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