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2番目のアダム(ルカ4:1-13)
고요한 2026-03-25 추천 0 댓글 0 조회 9

 

20250702水曜礼拝

聖書:ルカ4:1-13
題目:2番目のアダム
賛美:341、342

説教:高曜翰 牧師

場所:大阪中央教会


1.共感してくださるお方

「誰かの靴を履いてみよ(Stand in someone’s shoes)」という言葉がある。
これは、相手の立場に立って考えるという意味である。

ここで重要なのは、Sympathy(自分の立場から相手を見ること)ではなく、Empathy(相手の立場から相手を見ること)である。

人は上の立場から語られる正論や正解よりも、自分と同じ立場に立って語られる共感を受け入れやすい。
そのため、人は親よりも友達を好むことがある。

つまり、人は共感してくれる人に近づくのである。


2.イエスの試練の内容

(1)不可解に見える出来事

「イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰られた」とあるが、これは洗礼を受けて聖霊に満たされた直後の出来事である。
罪のないイエスが、なぜ罪人と同じように洗礼を受けられたのかという疑問が生じる。

また、「荒野を40日の間、聖霊に引き回され、悪魔の試みにあわれた」とある。
これはイエスが自ら望んで行ったのではなく、受動的に導かれた出来事である。
なぜ聖霊がイエスを導き、その結果として悪魔の試みに遭わせたのかも、一見すると不可解である。

さらに、「悪魔はあらゆる試みをし尽くして、イエスを離れた」とある。
すべての試みがあった中で、代表的な三つだけが記されている。

この三つの試練は、アダムが受けた試練をもう一度踏み直すものである。


(2)第一の試練:石をパンに変えよ

サタンは「神の子なら、この石をパンに変えてみよ」と言った。
その目的は、神のみこころよりも自分の欲求を満たすことを優先させることである。

荒野での空腹という状況を利用し、「生きることそのもの」を目的にさせようとした。
これは生命の危機を利用した誘惑である。

アダムはこの点で失敗した。
神は「すべての木から食べてよいが、善悪の木の実は食べてはならない」と言われたが、エバは「触れてもいけない」と付け加えて理解していた。
つまり、神の言葉が正しく伝えられていなかった。

これに対してイエスは、「人はパンだけで生きるのではなく、神の言葉で生きる」と答えられた(申命記8:3)。

イエスは危機的状況においても神の言葉を正しく理解していた。
結論として、私たちを生かすのは食べ物ではなく、神の言葉である。


(3)第二の試練:栄光と権威の誘惑

(※マタイでは第二と第三が逆)

サタンは「私を拝むなら、すべての国々の権威と栄華を与える」と言った。
その目的は、十字架という困難な道を避けさせ、簡単に栄光を得させることである。

また、本来神に帰されるべき栄光を人間に横取りさせようとした。
これは目に見える栄光による誘惑である。

アダムとエバはここでも失敗した。
エバは「その実が食べるによく、美しく、賢くなるように見えた」と感じて取って食べた。
しかし本来、人はすでに神のかたちに造られていたにもかかわらず、その事実を見失っていた。

これに対してイエスは、「主なる神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」と答えられた(申命記6:13)。

イエスは自分が神の栄光のために存在していることを理解していた。
結論として、人間の存在理由は、目に見えない神に栄光を帰すことである。


(4)第三の試練:神を試みよ

サタンは「神の子なら飛び降りよ。神は御使いたちに命じて守ると書いてある」と言った(詩篇91:11−12)。

その目的は、神への信頼を揺るがすことである。
神の言葉を利用し、もっともらしい形で誘惑している点が特徴である。

飛び降りるという行為は、神の言葉を疑うことにつながる。
また、洗礼の時に与えられた神の言葉が不十分であるかのように扱うことになる。

アダムもここで失敗した。
「それを食べると神のようになる」と言われ、神の善意を疑うように仕向けられた。
良い主人である神を、悪い主人であるかのように思わせられたのである。

これに対してイエスは、「主なる神を試みてはならない(하나님을 시험하지 말라)」と答えられた(申命記6:16)。

イエスは、神は試す必要のないほど良いお方であることを知っていた。
結論として、神以上に信頼できる存在はこの世にいない。


3.この出来事が伝えていること

(1)イエスは命をもたらすアダムである

コリント人への第一の手紙15章45節にはこうある。

「最初の人アダムは生きたものとなった。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。」

地に属するアダムを通して全人類が罪人となったが、天に属するイエスを通して義と命が与えられる。

ルカの系図(ルカ3:23−38)はイエスからアダム、そして神へと遡っている。
一方、マタイはアブラハムから始まる。

なぜルカはこの順序を取り、しかも洗礼と荒野の試練の間に配置したのか。
それは、イエスが人類の失敗した試練を克服するお方であり、その起源が神にあることを示すためである。

アダムがつまずいた試練をイエスが克服することに意味がある。
天使が助けてしまえば意味がないため、助けは与えられなかった。

イエスは第二のアダムとして、第一のアダムの失敗を克服するために来られたのである。


(2)イエスは共感してくださるお方である

ヘブル人への手紙4章15節にはこうある。

「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできない方ではない。」

ここで使われている「思いやる(συμπαθέω)」という言葉は、同じ感情を共有することを意味する。

イエスは天から命令するためではなく、人間を理解するために地上に来られた。
実際に同じ経験をし、その上で宣教を始められた。

イエスは王としてではなく、まず羊飼いたちに現れたが、それも同じ意味を持つ。

イエスは罪を犯されなかったが、私たちと同じ視線に立ち、私たちを憐れんでくださる方である。
ヨルダン川で洗礼を受けられたこともその一例である。


(3)神の言葉だけが勝利をもたらす

ヘブル人への手紙4章16節はこう語る。

「だから、あわれみを受け、恵みにあずかるために、大胆に恵みの御座に近づこう。」

私たちは何かを自分の力で達成する必要はない。
この世は努力や強さを求めるが、イエスは「もっと良い人になれ」とは言われなかった。

ただ神に近づけばよいのである。
イエスは私たちの弱さを知っておられる。

私たちは完全である必要はない。
神に近づくことによって義とされるのである。

また、受動的であってもよい。
イエスご自身も、自ら進んで試練を求めたのではなく、導かれて経験された。

大切なのは、自分が前に出ることではなく、仕える心である。
ただし、不平を言ってはならない。

(体験談)
牧師になるためには多くの条件が必要だと思っていた。
しかし、自分にはできないことが多いという現実を知った。


4.荒野の試練からわかること

① イエスは命をもたらすアダムである。
アダムがつまずいた同じ試練を受け、それを克服された。
そして、その克服の方法までも教えてくださった。

② イエスは私たちに共感してくださるお方である。
私たちを理解するために、本来受ける必要のない洗礼や試練を受けられた。
たとえ人との関係がうまくいかなくても、神との関係は築くことができる。

③ 私たちは手ぶらでイエスに近づいてよい。
イエスは人間の弱さをこの試練を通して知っておられる。
また、イエスはご自身の力ではなく、父なる神の言葉によって勝利された。


結論

試練を乗り越える秘訣は、肉体的・精神的に強くなることではない。
神に近づき、神に頼って生きることである。

そして、イエスのように、人の弱さを認め、共感できる者となろう。​ 

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