1.本文解説
(1)トロアスでの最後の食事会
トロアスにおいて、パウロと教会の人々は週の初めの日、すなわち日曜日に集まりました。ユダヤの暦では日没から一日が始まるため、現代の感覚では土曜日の夜にあたります。
彼らはパンを裂くために集まりました。これは単なる食事ではなく、食事を共にした後に聖餐式を行う集まりでした。当時の信者たちは食べ物を持ち寄り、特に奴隷の身分の人々にとっては、この集まりが一日の大切な食事の機会でもありました。奴隷は日中働いているため、自由になる夜にしか集まることができなかったのです。
パウロは翌日に出発する予定であったため、この日が最後の交わりとなりました。そのため多くの人々が集まり、彼は夜中まで語り続けました。
屋上の部屋には多くの灯りがともされていました。これはオリーブ油のランプによるもので、部屋は満員状態であり、空気が薄くなりやすい環境でもありました。
(2)ユテコの事故と死
その中で、ユテコという青年が窓辺に座っていました。
彼は新鮮な空気を求めて窓の近くにいたのかもしれません。「青年」とありますが、8歳から14歳ほどの少年、あるいは30代の奴隷であった可能性もあります。「ユテコ(幸運)」という名前は奴隷に多い名前であるため、おそらく奴隷であったと考えられます。
彼は昼間の労働の疲れと、部屋の空気の悪さ、そして長時間に及ぶパウロの話の中で眠気に勝てず、ついに眠り込んでしまいました。そして三階から落ち、死んでしまいます。
この出来事によって集会は中断され、人々は大きな衝撃を受けました。医者であるルカが確認した可能性もあり、彼の死は明らかでした。夜中に大きな騒ぎとなったのです。
(3)パウロによるよみがえりと慰め
しかしパウロはすぐに下に降り、ユテコを抱きかかえて「騒ぐことはない。まだ命がある」と言いました。そして彼は生き返りました。
これはペテロがタビタをよみがえらせた出来事を思い起こさせます。
その後、パウロは再び上に戻り、集会を再開しました。パンを裂き(聖餐式)を行い、さらに食事をしながら、明け方まで語り続けました。
この出来事を通して、人々の聞く姿勢は大きく変えられました。単なる長い説教ではなく、神の力といのちを目の当たりにしたからです。
そして人々は、生き返ったユテコを家に連れて帰り、大いに慰められました。彼らは疲れたのではなく、むしろ慰めを受けたのです。
2.適用
(1)教会は慰めを受ける場所である
この出来事を通して分かることは、教会とは慰めを受ける場所であるということです。
人々はパウロを通して神の慰めを受けました。
ユテコは疲れの中で眠り、命を落としましたが、再び生かされました。
また、聖餐式を通して主が共におられることを体験しました。
長時間の集会であっても、それは人々を疲れさせるものではなく、むしろ慰めを与えるものとなりました。
(2)どのような状態でも来てよい場所
イエスは「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」と言われました。
教会は、悲しみを持って来てよい場所です。
また、神の慰めを受け取る場所です。
ユテコのように、疲れ果てて眠ってしまうような状態であっても、教会に来てよいのです。完全な状態で来る必要はありません。弱さを抱えたままで来ることが許されています。
(3)慰めを与える共同体としての教会
大阪中央教会もまた、そのような共同体であるべきです。
人の失敗に対して寛容である必要があります。ただし、意図的な悪意に対しては向き合う必要があります。
そして、たとえ失敗や転倒があったとしても、その中に神が共におられ、慰めを与えてくださることを信じるべきです。
教会は「落ちても、命がある」と語ることができる場所でなければなりません。
3.まとめ
教会とは、悲しむ者、倒れた者がもう一度立ち上がる力を受ける場所です。
弱さを抱えたままでもよい。失敗してもよい。
そこに神のいのちと慰めがあるからです。
慰めを受け、また慰めを与える教会として歩んでいきましょう。
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